
「あくまでお客さん次第です」、運転手は音楽に合わせて指先でハンドルをとんとんと軽く叩きながらそう言った。「ここに座って良い音で音楽を聴きながら、のんびりしてらしても、私としちゃちっともかまいません。いくらがんばってもどこにも行けないんですから、こうなったらお互い腹をくくるしかありません。しかしもし緊急の用件がおありなら、そういう非常手段も<傍点>なくはない</傍点>ってことです」
青豆は軽く顔をしかめ、腕時計に目をやり、それから顔を上げてまわりの車を眺めた。右側には、うっすらと白くほこりをかぶった黒い三菱パジェロがいた。助手席に座った若い男は窓を開けて、退屈そうに煙草を吸っていた。髪が長く、日焼けして、えんじ色のウィンドブレーカーを着ている。荷物室には使い込まれた汚ないサーフボードが何枚か積んであった。その前にはグレーのサーブ900が停まっていた。ティントしたガラス窓はぴたりと閉められ、どんな人間が乗っているのかは外からはうかがえない。実にきれいにワックスがかけられている。そばに寄ったら車体に顔が映りそうなくらいだ。
青豆の乗ったタクシーの前には、リアバンパーにへこみのある練馬ナンバーの赤いスズキ?アルトがいた。若い母親がハンドルを握っている。小さな子供は退屈して、シートの上に立って動き回っていた。母親はうんざりしたような顔で注意を与えている。母親の口の動きがガラス越しに読みとれた。十分前とまったく同じ光景だ。この十分のあいだに、車は十メートルも進んではいないだろう。
青豆はひとしきり考えをめぐらせた。いろんな要素を、優先順位に従って頭の中で整理した。結論が出るまでに時間はかからなかった。ヤナーチェックの音楽も、それにあわせるように最終楽章に入ろうとしていた。
青豆はショルダーバッグから小振りなレイバンのサングラスを出してかけた。そして財布から千円札を三枚取り出して運転手に渡した。
「ここで降ります。遅れるわけにはいかないから」と彼女は言った。
運転手は肯いて、金を受け取った。「領収書は?」
「けっこうです。お釣りもいらない」
「それはどうも」と運転手は言った。「風が強そうですから、気をつけて下さい。足を滑らせたりしないように」
「気をつけます」と青豆は言った。
「それから」と運転手はルームミラーに向かって言った。「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」
ものごとは見かけと違う、と青豆は頭の中でその言葉を繰り返した。そして軽く眉をひそめた。
「それはどういうことかしら?」
運転手は言葉を選びながら言った。「つまりですね、言うなればこれから<傍点>普通ではない</傍点>ことをなさるわけです。そうですよね? 真っ昼間に首都高速道路の非常用階段を降りるなんて、普通の人はまずやりません。とくに女性はそんなことしません」
「そうでしょうね」と青豆は言った。
「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」
青豆は運転手の言ったことについて考えた。考えているうちにヤナーチェックの音楽が終わり、聴衆が間髪を入れずに拍手を始めた。どこかのコンサートの録音を放送していたのだろう。長い熱心な拍手だった。ブラヴォーというかけ声も時折聞こえた。指揮者が微笑みを浮かべ、立ち上がった聴衆に向かって何度も頭を下げている光景が目に浮かんだ。彼は顔を上げ、手を上げ、コンサートマスターと握手をし、後ろを向き、両手を上げてオーケストラのメンバーを賞賛し、前を向いてもう一度深く頭を下げる。録音された拍手を長く聞いていると、そのうちに拍手に聞こえなくなる。終わりのない火星の砂嵐に耳を澄ませているみたいな気持ちになる。
「現実はいつだってひとつしかありません」、書物の大事な一節にアンダーラインを引くように、運転手はゆっくりと繰り返した。
「もちろん」と青豆は言った。そのとおりだ。ひとつの物体は、ひとつの時間に、ひとつの場所にしかいられない。アインシュタインが証明した。現実とはどこまでも冷徹であり、どこまでも孤独なものだ。
