誰かと同席している場合であれば、天吾は立ちくらみのふりをする。それは事実、立ちくらみに似ている。時間さえ経過すれば、すべては平常に復する。彼はポケットからハンカチを取り出し、口に当ててじっとしている。手をあげて、何でもない、心配することはないと相手にシグナルを送る。三十秒ほどで終わることもあれば、一分以上続くこともある。そのあいだ同じ映像が、ビデオテープにたとえればリピート状態で自動反復される。母親がスリップの肩紐を外し、その硬くなった乳首をどこかの男が吸う。彼女は目を閉じ、大きく吐息をつく。母乳の懐かしい匂いが微かに漂う。赤ん坊にとって嗅覚はもっとも先鋭的な器官だ。嗅覚が多くを教えてくれる。あるときにはすべてを教えてくれる。音は聞こえない。空気はどろりとした液状になっている。聴き取れるのは、自らのソフトな心音だけだ。

 これを見ろ、と彼らは言う。これ<傍点>だけ</傍点>を見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかには行けないのだ、と彼らは言う。そのメッセージが何度も何度も繰り返される。

 今回の「発作」は長く続いた。天吾は目を閉じ、いつものようにハンカチを口にあて、しっかり噛みしめていた。どれくらいそれが続いたのかわからない。すべてが終わってしまってから、身体のくたびれ方で見当をつけるしかない。身体はひどく消耗していた。こんなに疲れたのは初めてだ。まぶたを開くことができるようになるまでに時間がかかった。意識は一刻も早い覚醒を求めていたが、筋肉や内臓のシステムがそれに抵抗していた。季節を間違えて、予定より早く目を覚ましてしまった冬眠動物のように。

「よう、天吾くん」と誰かがさっきから呼びかけていた。その声は横穴のずっと奥の方から、ぼんやりと聞こえてきた。それが自分の名前であることに天吾は思い当たった。「どうした。また例のやつか? 大丈夫か?」とその声は言った。今度はもう少し近くに聞こえる。

 天吾はようやく目を開け、焦点をあわせ、テーブルの縁を握っている自分の右手を眺めた。世界が分解されることなく存在し、自分がまだ自分としてそこにあることを確認した。しびれは少し残っているが、そこにあるのはたしかに自分の右手だった。汗の匂いもした。動物園の何かの動物の艦の前で嗅ぐような、奇妙に荒々しい匂いだ。しかしそれは疑いの余地なく、彼自身の発する匂いだった。

 喉が渇いている。天吾は手を伸ばしてテーブルの上のグラスをとり、こぼさないように注意しながら半分水を飲んだ。いったん休んで呼吸を整え、それから残りの半分を飲んだ。意識がだんだんあるべき場所に戻り、身体の感覚が通常に復してきた。空っぽになったグラスを下に置き、口元をハンカチで拭った。

「すみません。もう大丈夫です」と彼は言った。そして今向かい合っている相手が小松であることを確認した。二人は新宿駅近くの喫茶店で打ち合わせをしている。まわりの話し声も普通の話し声として聞こえるようになった。隣りのテーブルに座った二人連れが、何ごとが起こったのだろうといぶかってこちらを見ていた。ウェイトレスが不安そうな表情を顔に浮かべて近くに立っている。座席で吐かれるのを心配しているのかもしれない。天吾は顔を上げ、彼女に向かって微笑み、肯いた。問題はない、心配しなくていい、というように。

「それって、何かの発作じゃないよな?」と小松は尋ねた。

「たいしたことじゃありません。ただの立ちくらみのようなものです。ただきついだけで」と天吾は言った。声はまだ自分の声のようには聞こえない。しかしなんとかそれに近いものにはなっている。

「車を運転してるときなんかにそういうのがおこると、なかなか大変そうだ」、小松は天吾の目を見ながら言った。

「車の運転はしません」

「それはなによりだ。知り合いにスギ花粉症の男がいてね、運転中にくしゃみが始まって、そのまま電柱にぶつかっちまった。ところが天吾くんのは、くしゃみどころじゃすまないものな。最初のときはびつくりしたよ。二回目ともなれば、まあ少しは慣れてくるけど」



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