小松は上着のポケットから茶色の封筒を出し、それを天吾に渡した。封筒の中には定型のカラー写真が二枚入っていた。女の子の写真だった。一枚は胸から上のポートレイト、もう一枚は全身が映ったスナップ写真。同じときに撮られたものらしい。彼女はどこかの階段の前に立っている。広い石の階段だ。古典的な美しい顔立ち、長いまっすぐな髪。白いブラウス。小柄で、やせている。唇は笑おうと努力しているが、目はそれに抵抗している。生真面目な目だ。何かを求める目だ。天吾はその二枚の写真をしばらく交互に眺めた。なぜかはわからないが、その写真を見ているうちに、その年代の頃の自分のことを思い出した。そして胸がわずかに痛んだ。それは長いあいだ味わったことのない特別な種類の痛みだった。彼女の姿にはそういう痛みを喚起するものがあるようだった。

 小松が言った。「それがふかえりだ。なかなかの美人だろう。それも清楚なタイプだ。十七歳。申しぶんない。本名は深田絵里子。しかし本名は出さない。あくまで『ふかえり』で通す。芥川賞でもとったら、ちょっとした話題になると思わないか。マスコミは夕暮れどきのコウモリの群れみたいに頭上を飛び回るだろう。本は作る端から売れる」

 小松はどこでその写真を手に入れたのだろう、天吾は不思議に思った。応募原稿に写真が添えられてくるわけはない。しかし天吾はそれについては質問しないことにした。回答を——どんな回答か予測もつかないが——知りたくなかったということもある。

「そいつは君が持っていればいい。何かの役に立つだろう」と小松は言った。天吾は写真を封筒に戻し、『空気さなぎ』の原稿コピーの上に置いた。

「小松さん、僕は業界の事情みたいなものはほとんど何も知りません。でも一般常識に照らし合わせて考えれば、これはすごく危なっかしい計画です。いったん世間に向けて嘘をついたら、永遠に嘘をつき通さなくちゃなりません。つじつまを合わせ続けなくちゃならない。心理的にも技術的にも、それは簡単なことじゃないはずです。誰かがどこかでひとつでもしくじれば、全員の命取りになりかねない。そう思いませんか?」

 小松は新しい煙草を取り出して火をつけた。「そのとおりだ。君の言い分は健全で正しい。たしかにリスキーな計画だ。今の時点ではいささか不確定要素が多すぎる。何が起こるか予測がつかない。失敗して、それぞれに面白くない思いをすることになるかもしれない。そいつはよくわかっている。しかしな、天吾くん、すべてを考慮した上で、俺の本能は『前に進め』と告げている。なぜならこんなチャンスはまずお目にかかることのできないものだからだ。これまでだって一度もなかった。この先だってたぶんないだろう。賭け事にたとえるのは不適当かもしれんが、札も揃っている。チップもたっぷりある。いろんな条件がぴったりと合っている。この機会を逃したら、あとあと後悔することになる」

 天吾は黙って、相手の顔に浮かんだいかにも不吉な微笑みを眺めていた。

「そしてなによりも大事なのは、俺たちが『空気さなぎ』を、より優れた作品に作り直そうとしているという点にある。あれはもっとうまく書かれて<傍点>いいはず</傍点>の話なんだ。あそこには何かとても大事なものがある。誰かがうまく取り出してやらなくちゃならん<傍点>何か</傍点>だ。天吾くんだって内心ではそう思っているはずだ。違うか? そのために我々は力を合わせる。プロジェクトを立ち上げ、それぞれの能力を持ち寄る。動機としてはどこに出しても恥ずかしくないものだよ」

「しかし小松さん、どんな理屈を持ち出そうと、大義名分を掲げようと、これはどうみても詐欺行為ですよ。動機はどこに出しても恥ずかしくないものかもしれないけれど、実際にはどこに出すこともできない。裏でこそこそ動き回らなくちゃなりません。詐欺という言葉が不適当なら、背信行為です。法律には反していなくても、そこにはモラルという問題があります。だって編集者が自社の文芸誌の新人賞作品をでっちあげるなんて、株式で言えばインサイダー取引きみたいなものじゃないですか」

「文学と株式を比較することはできない。その二つはまったく違うものだ」

「たとえばどんなところが違うんですか?」

「たとえば、そうだな、君はひとつ重大な事実を見落としている」と小松は言った。彼の口はこれまで見たことがないくらい大きく、楽しげに広がっていた。「というか、その事実から故意に目を背けている。それはね、君自身がすでにこいつを<傍点>やりたがっている</傍点>ってことだ。君の気持ちはもう『空気さなぎ』の書き直しに向かっている。俺にはそれがよくわかる。リスクもモラルもへったくれもない。天吾くん、君は今では『空気さなぎ』を自分の手で書き直したくてたまらないはずだ。ふかえりの代わりに自分がその何かを取り出したくてたまらないはずだ。なあ、それがまさに文学と株式の違いなんだよ。そこでは良くも悪くも、金以上の動機がものごとを動かしていく。うちに帰って自分の本心をじっくり確かめてみるといい。鏡の前に立って自分の顔をよく眺めてみるといい。顔にしっかりとそう書いてあるぜ」



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