彼女はホテルに入ると、まっすぐ洗面所に行った。ありがたいことに洗面所には誰もいなかった。まず便座に座って放尿をした。とても長い放尿だった。青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。それから洗面台に向かい、石鹸を使って丁寧に手を洗い、ブラシで髪をとかし、鼻をかんだ。歯ブラシを出して、歯磨き粉をつけずに手早く歯を磨いた。時間があまりないからフロスは省いた。そこまでする必要はあるまい。デートに出かけるわけではない。鏡に向かってうっすらと口紅をひいた。眉も整えた。スーツの上着を脱いで、ブラジャーのワイヤの位置を調整し、白いブラウスのしわをのばし、脇の下の汗の匂いをかいだ。匂いはない。そのあとで目を閉じて、いつものようにお祈りの文句を唱えた。その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということが大事なのだ。

 お祈りが終わると、目を開けて鏡の中の自分の姿を見た。大丈夫。どこから見ても隙のない、いかにも有能そうなビジネス?ウーマンだ。背筋はまっすぐ伸び、口元も引き締まっている。大きなずんぐりとしたショルダーバッグだけがいささか場違いだ。たぶん薄手のアタッシェケースでも持つべきなのだろう。しかしそのぶんかえって実務的に見える。念には念を入れて、ショルダーバッグの中の品物をもう一度点検した。問題はない。すべてあるべき場所に収まっている。なんでも手探りで取り出せるようになっている。

 あとはただ決められたことを実行するだけだ。揺らぎのない信念と無慈悲さを持ち、まっすぐことにあたらなくてはならない。青豆はそれから、ブラウスのいちばん上のボタンをはずし、身をかがめたときに胸の谷間が見えやすいようにする。もう少し胸が大きいと効果的なのにな、と彼女は残念に思う。

 誰に見とがめられることもなくエレベーターで四階に上がり、廊下を歩いてすぐに四二六号室のドアを見つける。ショルダーバッグの中から用意しておいた紙ばさみをとりだし、それを胸に抱え、部屋のドアをノックする。軽く簡潔にノックする。しばらく待つ。それからもう一度ノックする。ほんの少しだけより強く、より硬く。中からもぞもぞと声が聞こえ、ドアが小さく開く。男が顔をのぞかせる。年齢は四十歳前後。マリン?ブルーのワイシャツに、グレーのフラノのスラックスというかっこうだ。ビジネスマンがとりあえずスーツの上着を脱ぎ、ネクタイをはずしたという雰囲気が漂っている。いかにも不機嫌そうな赤い目をしている。おそらく寝不足なのだろう。ビジネス?スーツを着た青豆の姿を見て、いくらか意外な顔をした。たぶん室内の冷蔵庫の補充をするメイドでも予想していたのだろう。

「おくつろぎのところを失礼いたします。ホテルのマネージメントの伊藤と申しますが、空調設備に問題が生じまして、点検に参りました。五分ばかりお部屋にお邪魔してよろしいでしょうか」と青豆はにこやかに微笑みながら、てきぱきとした口調で言った。

 男は目を不快そうにすぼめた。「大事な急ぎの仕事をしているところなんだ。一時間くらいで部屋を出るから、そのときまで待ってもらえないかな? 今のところこの部屋の空調にはとくに問題もないみたいだし」

「申し訳ございませんが、漏電に関係する緊急の安全確認なので、できれば早急に終えてしまいたいのです。このようにお部屋をひとつひとつ回っております。ご協力いただければ、五分もかからずに終わります」

「しょうがないな」と男は言って舌打ちをした。「邪魔されずに仕事をするために、わざわざ部屋を借りたのに」

 彼は机の上の書類を指さした。コンピュータからプリントアウトされた細かい図表が積み上げられている。今夜の会議のために必要な資料を準備しているのだろう。計算器があり、メモ用紙にはたくさんの数字が並べられている。

 この男が石油関連の企業に勤めていることを青豆は知っている。中東諸国での設備投資に関するスペシャリストなのだ。与えられた情報によれば、その領域では有能だということだった。物腰でそれはわかる。育ちが良く、高い収入を得て、ジャガーの新車に乗っている。甘やかされた少年時代を送り、外国に留学し、英語とフランス語をよく話し、何ごとによらず自信たっぷりだ。そしてどのようなことであれ、他人から何かを要求されることに我慢ならないタイプだ。批判にも我慢ならない。とくにそれが女性から向けられた場合には。その一方で、自分が他人に何かを要求することはちっとも気にならない。妻をゴルフクラブで殴って肋骨を数本折ることにもさして痛痒を感じない。この世界は自分が中心になって動いていると思っている。自分がいなければ地球はうまく動かないだろうと考えている。誰かに自分の行動を邪魔されたり否定されたりすると腹を立てる。それも激しく腹を立てる。サーモスタットが飛んでしまうくらい。



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