
「ご迷惑をおかけします」と青豆は営業用の明るい微笑みを浮かべたまま言った。そして既成事実を作るように、身体を半分部屋の中に押し込み、ドアを背中で押さえながら紙ばさみを広げ、ボールペンでそこに何かを書き込んだ。「お客様は、えー、深山{みやま}さまでいらっしゃいますね」、彼女は尋ねた。写真で何度も見て顔は覚えているが、人違いでないことを確認しておいて損はない。間違えたら取り返しがつかない。
「そうだよ、深山だ」とぞんざいな口調で男は言った。それからあきらめたようにため息をついた。わかったよ、なんでも勝手にすればいい、というように。そしてボールペン片手に机に向かい、読みかけていた書類をもう一度手に取った。メイクされたままのダブルベッドの上にはスーツの上着と、ストライプのネクタイが乱暴に放り出されている。どちらもいかにも高価そうなものだ。青豆はショルダーバッグを肩にかけたまま、まっすぐクローゼットに向かった。空調のスイッチパネルがそこにあることは前もって聞かされている。クローゼットの中にはソフトな素材で作られたトレンチコートと、濃いグレーのカシミアのマフラーがかけてあった。荷物は革製の書類かばんひとつきりだ。着替えも化粧バッグもない。たぶんここに逗留するつもりはないのだろう。机の上にはルームサービスでとったコーヒーポットがある。三十秒ばかりパネルを点検するふりをしてから、彼女は深山に声をかけた。
「どうもご協力をありがとうございました、深山さま。この部屋の設備には何も問題はありません」
「だからこの部屋の空調には問題ないって、はじめから言ってるじゃないか」、深山はこちらを振り向きもせず、横柄な声で言った。
「あの、深山さま」、青豆はおずおずと言った。「失礼ですが、首筋に何かがついているようです」
「首筋に?」、深山はそう言って、手を自分の首の後ろにあてた。そして少しこすってから、その手のひらを不審そうに眺めた。「何もついてないみたいだけれど」
「ちょっと失礼させていただきます」と青豆は言って机に近寄った。「近くで拝見してよろしいですか」
「ああ、いいけど」と深山はわけがわからないという顔をして言った。「何かって、どんなもの?」
「塗料のようなものです。明るい緑色をしています」
「塗料?」
「よくわかりません。色合いはどう見ても塗料のようですね。失礼ですが、手を触れてもかまいませんか。とれるかもしれませんから」
「ああ」と言って、深山は前にかがみこんで、首筋を青豆に向けた。ヘアカットをしたばかりらしく、首筋に髪はかかっていない。青豆は息を吸い込み、呼吸を止め、意識を集中して<傍点>その部分</傍点>を素早く探り当てた。そしてしるしをつけるように指先でそこを軽く押さえた。目を閉じて、その感触に間違いがないことを確かめた。そう、ここでいい。本来であればもっとゆっくり時間をかけて念押ししたいところだが、そこまでの余裕はない。与えられた条件の中でベストを尽くす。
「申し訳ありませんが、少しそのままの姿勢でじっとしていていただけますか。バッグからペンライトを出します。この部屋の照明ではよく見えないもので」
「なんだって塗料なんかが、そんなところにつくんだ」と深山は言った。
「わかりません。今すぐに調べます」
青豆は男の首筋の一点に指をそっとあてたまま、ショルダーバッグからプラスチックのハードケースを取り、蓋を開けて薄い布にくるまれたものを出した。片手で器用にその布をほどくと、中から出てきたのは小振りなアイスピックに似たものだった。全長は十センチほど。柄{つか}の部分は小さく引き締まった木製になっている。でもそれはアイスピックではない。ただアイスピックに似たかたちをとっているだけだ。氷を砕くためのものではない。彼女は自分でそれを考案し、製作した。先端はまるで縫い針のように鋭く尖っている。その鋭い先端は折れることがないように、小さなコルク片に突き刺してある。特別に加工して綿のように柔らかくしたコルクだ。彼女は爪先で注意深くそのコルクを取り、ポケットに入れる。そして剥き出しになった針先を深山の首筋の<傍点>その部分</傍点>にあてる。さあ落ち着いて、ここが肝心なんだから、と青豆は自分に言い聞かせる。十分の一ミリの誤差も許されない。もしほんの少しでもずれたら、すべての努力が水泡に帰してしまうことになる。何よりも集中力が要求される。
